宝石になりたい石ころ

『宝石になりたい石ころ』略して“なりころ“

忘れてはいけない日

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

私はあの日のことは絶対に忘れてはいけない日だと思う。

私が大学生になり、一人暮らしを始めた。初めての一人暮らしで一歩大人の階段を登った気がして気持ちも高揚していた。自販機も近くにあるし最高だ。それもそのはず私は、実家にいる時は兄と同部屋で過ごしていて、自分の部屋というものが与えられてなかった。なので今回一人暮らしするとなり、まるで卵から孵化して飛び立つような気持ちでいた。

入学前に引っ越しを終えて昂った気持ちのまま大学の門をくぐった。

最初の日は校内見学や大学の仕組みなどの説明を受けて、最後に学生番号順に6人グループを作って自己紹介する形になった。そこで出会った3人とか気が合うと確信した。ここではABCと置く。

Aは、話を広げてくれるリーダー的存在で私とふざけ合ったりもする友達

Bは、最初は人見知りで全く話すにもすぐ会話が終わったらとかもあったが、仲良くなれば最高の友達

Cは、とにかくうるさいムードメーカーというかまあ近い存在で私と馬が合う友達

とまあ3人のざっくりとした紹介になる。

最初の方は大体自分合わせての4人で行動していたが、Cが高校一緒のやつで仲良い奴いるから連れてくるわといいDを連れてきた。第一印象は金髪で頭悪そうだなと思った。

この出会いが良かったのか悪かったのかいまだにわからない。

Dを連れてきたその日にCが Dの家行こーぜとなり私とCと Dの3人で行くことになった。そこでびっくりしたのが、向かってる方面が自分の家の方向で家こっち側なんだ?って聞いたら、自販機のところの家だよと言われて、なんとそのアパートは自分のアパートの隣だった。運命的な何かを感じた。家に着き上がらせてもらうとなんとも狭い部屋だった。まあ上がらせてもらってるから何も言えないけど。その日は特に踏み込んだ話とかもせず、すぐ解散になった。

次の日は朝から身体検査があったので大学に向かう途中後ろから自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。振り向くとDだ。一緒に行こと自然になった。だがこの時はまだDと仲良くなく全く会話が弾まなかった。自分はDのことを苦手だなと少し思ってしまった。

次の日もまたその次の日もといった自然に毎日一緒に大学に通っていく中で仲良くなっていった。そう、自分の言いにくい部分とかの踏み込んだ話もできるようになった。

一年の夏頃、Dの家で夜ご飯を食べて散歩に行くことになった。大体9時頃だったと思うな。目的地もなく歩き公園のブランコに座って話していた。そこで、Dの口から俺お前と出会って変わったわと言われた。急な発言に驚いたが理由を聞くと、高校の時はうつ病だったらしい。自分から話しかけることは当然なく話しかけても返答のないくらいひとりで居たらしい。うん。聞きたいことだ山ほどある。

Cと仲良かったみたいだけど、本当か?→高校一年で部活を辞めた後しばらくはCと良く遊んでいたから仲は良かった。しかし、2年くらいからだんだんと人と接するのが嫌になった。

そんな状態でなぜ大学に来た?→高校卒業するときに地元から遠く離れて働くという話を親に話したら、それなら大学に通いなさいと言われたため入学したらしい。これを機に気持ちも切り替えたみたい。

この後もいろいろな話を聞いた。なるほど。それでなんで俺と出会って変わったって言ったの?と尋ねるとお前が人と話すことの楽しさを教えてくれた。お前は俺の光みたいなものだ。くさいこと言いやがって、嬉しいけどな。結果的には俺のおかげでうつ病を克服できたらしい。

月日は流れ、私たちは20歳になった。お酒解禁

ということでDの家でBと私の3人でお酒を飲むことに。乾杯!ゴクリ。うん悪くないね。美味しいじゃん!から始まりこの3人はどの2人で話しても話が途切れることなく話せる親友と呼べるほどまでなった。

この3人で釣りに行ったり、旅行に行ったり、Dの家で宅飲みしたり、ほんとに色んなことをした。楽しかった。

1年の冬、童貞だったDにも彼女ができた。私は心から応援してた。しかし、相手の浮気が原因で2年の5月に破局してしまった。ゴールデンウィークということもあり、気持ちを切り替えるためにも旅行に連れ出した。露天風呂で2人きりになる機会があった。その時溜まってた色々なことを話してくれた。だから、大丈夫そういう時に俺がいるから!頼ってくれよと言って宥めた。

そんな発言ができたのは私にも彼女がいたからだ。心の余裕ってやつ?しかし2年の6月くらいに私も破局してしまった。その時Dは話を聞いてくれた。やっぱりこいつはいいやつだ。

それからDは今まで特段服装に気を使ってたわけではなかったので、私が服を選んであげたりと、男磨きに日々励んでいた。身なりもそうだが、部屋の模様替えなども全部私が監修していた。

バイト先も一緒だし、どんな時もDといることが多かった。家族よりも一緒に過ごす時間が多かった。これは余談だが、飲み過ぎでお尻を拭けなかった時も拭いてくれたりもした。お前のこと大親友だと思ってるからこういう事もできるからなって。いい奴め

3年生に上がるとDは自己肯定感を上げる本やコミュニケーションに関する本などを読み始めた。私的にはそんな本読んだって何も変わらないから読むだけ無駄と言っていたが、Dは本に感化され、いろいろな考え方が変わってきた。

変わり方とすれば筋トレして、体にいいもの食べる。最初はここだけの変化だった。

この変化だけだと今まで通り接することはできた。

3年の冬。私たちは研究室に配属になった。もちろん一緒の研究室を選んだ。AもBも一緒だ。そこで歓迎会として飲み会があったのだが、先輩方がDのイメージは本当にうるさいって感じだねと言われた。その日はDの家で2人で飲み直すことにした。そこでやはりその話題に。俺ってうるさいのかな。と私は昔から言ってるけど常に声はでかいよ。別に直せって言ってるわけじゃないけど、いいように思われない時はくるよと伝えた。この発言のせいでDの何かのトリガーを引いてしまって狂わしてしまったと今は後悔している。

それからDは高校時代のように誰とも話さなくなり、研究にも来なくなった。そのおかげで誰かがDの分の研究をすることになっていた。卒業はその人のおかげでできた。

四年生になってからDとの会話は三言くらいしかない。あんなに仲が良かったのに。

だから、絶対に忘れてはいけない日(記憶に残っている日)は本を読み始めて感化された日だと思う。そこからあいつは根拠もない理論にあそばれた。違いない。

私は1人を救い、1人を窮地に追い込んでしまった。

メンタルブレイク

一年半ぶりくらいの投稿になりました。

大学生だった私も春から社会人になった。仕事は辛いものと自負していたが、もともと心が弱い方だったため、ストレスは溜まるし仕事中は気張りっぱなしで土日から体調を崩すことが多々ある。

病院に行ったが体に異常はない模様。

なら考えられるのは仕事による精神崩壊なのか。

私は特段仕事をしたくないわけではない。しかし、自分が分からない状態なのが昔から嫌いで、今わからないことだらけなのでそれが重荷となっているのだろうか。自分も早くみんなのように仕事できるようにならなきゃという考えが自分を苦しめているのだろうか。

答えがわからない。対処法もわからない。

誰か助けてください。

2019年もあと少し

2019年も残すとこあと4日ですね。皆さんはどのようにお過ごしですか。

私は少しだけアルバイトをして、年末に備えようと思っています。

 

年末年始はどのように過ごそうか。そんなことを毎年考えながら、大晦日を迎えてる気がする。私は、小さいころから父の影響で温泉好きであるため、大晦日の朝は、一年の汚れを流すという意味で、温泉に行っている。これは私と父の恒例行事となっている。

今年はどこの温泉に行こうかな。温泉を入り終わったら、だいたい母から○○買ってきてと連絡が入ってるので、買いに行く。そして家に戻り、祖父の家に行き、おせちやなんやらを食べる、ここまでが恒例行事だ。

わたしも20歳になり、お酒を飲める年なので、なにかお酒を手土産にしたいと考えて、いろいろ考えた結果、日本酒を買っていこうと決めた。購入した日本酒は、

三割九分の獺祭、久保田の萬壽、純米大吟醸 本流 手取川純米大吟醸 加賀鳶の4つの四郷瓶である。学生の割は結構張り切ったんではないだろうか。このラインナップならみんなも喜んで飲んでくれるはず。。

こんな恒例行事の年末が楽しみだ。

 

口癖

バイト中に、敬語を使うのは当たり前なのですが、絶対に行ってしまう言葉があるんですよ。

 

それが「あっ」なんですよね

 

意味わかんないですよね。例えば、「〇〇君これやっといて」とか言われたら、あっはいとかあっ分かりました。って言ってしまうんですよ。

お客さんにもあっはーーいみたいな感じで使ってしまう。

言った後いつもいつも嫌な気持ちになるけど、つい言ってしまうんですよね。

皆さんはこんなことありませんか?

口癖の直し方知ってる方いればコメント下さい。

日本語は綺麗

月に叢雲花に風

という言葉を恥ずかしながら最近初めて聞いた。

意味は、いいものには邪魔が入り、思うようにいかないこと。長続きしないこと

注釈は、名月の夜には雲がかかってせっかくの月が見えず、満開の花には風が吹いて花を散らしたりする。

 

この言葉はすごく響きが綺麗で、注釈であるものの情景が意味とは異なってすごく美しいものに感じる。

こんな言葉を使える人はとても綺麗な人なんだろうな。そして、和は美しく綺麗なおっとりするようなものだなと再確認しました。

物欲よ止まれ

3ヶ月前に1年半付き合っていた彼女に振られてから、物欲が半端じゃないほど湧いてくるんですよ。

 

元々、服が好きで月に15000円ほど使ってたのが、25000〜30000円ほど使ってしまうんです。彼女に使わなくなったお金を服に使ってると考えたらちょんちょんだと思うんですけど、抑えれる出費は抑えたい。

 

出費を抑えたいと思ってるのに、財布の紐が緩くなった気がするんです。食費にもあまり考えずに、食べたいものを食べちゃう。

私はどうしてしまったのでしょう。

 

2年ほど前から家計簿をつけているんですけど、ここ3ヶ月の出費が激しい。

どうしたら物欲を抑えれるんでしょうか

偏差値を25あげた話

私は幼い頃、口を開かない子供だったと親に聞かされた。その無口な性格よりわからないことがあっても、誰かに聞いて教えてもらったらはしなかった。ならば本などで調べていたのかというとそうでもない。

 

そういうわけで、私は無知なまま中学生まで上がった。中学の次は高校 そう、高校受験を目の前にしていた。親は出来の悪い私を心配して、ああだこうだ言っていた。

 

それは当然だ。親はこの心配をするものだ。そんなことは馬鹿な私でも知っている。しかしできないものはできないのである。

 

それは、最初のテストの出来栄えを見て、見兼ねた両親は私を某塾に通わせた。そこで実力テストを行った結果あまりにも酷い点数なため塾の講師ですら、門前払いの如く、お子さんはこの塾に向いていないでしょうと言われた。

 

もうどうしようもないと自分でもわかり、心を改め、日々勉強に励むようになった。

とは言っても、今まで何もできなかった私がいきなり出来ることもないので、前行った塾ではなく、他の塾に通うことにした。

そこの塾の先生は、私のことをよく理解してくれていて、私にあった勉強法などいろいろためになる話を聞かせてくれていた。そのおかげもあり、いろんなことにも興味が湧き、本を読むようにもなった。本を読むことは、国語力も上がり、知識も増え、プラスのことしかなかった。

 

塾に通い、一年が過ぎた頃、自分の成績は右肩上がりから平坦になってしまっていた。これ以上あがることないのかとやる気が下がっていて、塾にすら行きたくなかった。

 

すると、一本の電話がかかってきた。なんの変哲もない塾の先生からの説教電話でした。

 

その電話が少し怖くて、成績不振になったら怒られるんじゃないかって、若干怯えながら、勉強していると、ぐんぐん成績が伸びていき、逆に先生を黙らせてやる勢いで、勉強が楽しいと思えていた。

 

そうか、勉強は誰かのためにやってるんじゃなく、自分のためにやってるんだから、怯えながらやるもんじゃないんだなって気付かされました。

 

言いたいことは、勉強は辛いかもしれないけど、わかったら楽しいよ。周りの友達とかに教えたりしてる自分かっこよくない?って昔の自分と未来の日本の柱にささやきたいです。